私の愛車遍歴  OB会関東 田中秀樹

1、クルマとの出会い

 

 クルマへ興味が芽生えたのは、当時を振り返れば確か小学校入学間もなくの頃だろうか。それは、先の大戦が終わって間もなくの昭和25年(1950年)頃だから、当時は何もかも物不足の時代だ。東京では小学校の学校給食は始まってはいたものの、戦災による校舎不足から午前と午後の2部授業に甘んじていたし、国民の大多数は今では想像も出来ないような貧しい住宅環境と貧素な食生活に甘んじていた頃だ。

 私が生まれて初めて乗せてもらったクルマは、確かアメリカ製のV8エンジンを積んだハドソンだと思う。当時、父の仕事の関係で進駐軍のバイヤーが我が家に時々そのクルマで乗り付けていたので、子供心に初めて目の前に現れた大きくそして豪華な雄姿を良く覚えている。それは、自分の耳で聞いたこともないようなアメ車特有の「ボッ・ボッ・ボッ・ボッ」と言うV8特有のしびれるようなエンジン音、そしてマフラーから出てくる煙の何とも言えない匂い、どれ一つ取っても驚きと感動の新世界であった。だから、そのクルマがエンジン音を響かせて我が家に近づくと、何をおいても家から飛び出して出迎えたものだ。今でもそのクルマのダッシュボードやふわふわのベンチシートの豪華さ、後部座席乗客用の重厚な長い紐状の手すり、そして車内の何とも言えないアメリカの香りを覚えている。ちょっと横道にそれるが、排ガスの香りに加えてこの頃バイヤーが我が家に持ち込んだ「清涼飲料水コカ・コーラ」の香りである。独特な形状のガラス瓶には入ったこの「清涼飲料水」、泡が弾けて鼻にツーンとくる心地良い香りとさわやかな味は一生忘れることは出来ない。加えて、アメリカ製のチョコレート(HERSHEY’S)そしてチューインガムの虜にもなってしまった。その頃は甘いものに飢えていたし、森永や明治のミルクキャラメルを買うにも行列を作った時代だからなおさらのことだろう。(写真は同型車)

このアメ車の影響もあってか、また都会に住んでいる男の子がそうであったように、自分も本屋に行っては当時白黒2色刷りの自動車雑誌(モーターマガジン)をむさぼり読んだ。そして、アメ車の名称や年式毎の優美なスタイルを頭の中に刻み込んだものである。小学校の遊び友達と大通りに出ては走り過ぎるアメ車を遠目に見て、クルマの年式を当てたり、自分の博識ぶりを自慢していたのを今でも覚えている。この時代は進駐軍の将校やバイヤーが米本土から持ち込んだクルマが道路という道路を占拠していた。特に東京はクルマ市場を殆どアメ車が独占していた。庶民の憧れの的は専らアメ車であり、日本人のヨーロッパ車へとその人気が移るのは20年以上も先のことである。 

 

 中学に進学すると、一般的には電車が概ね通学の手段であったが、あえてバス通学を選択した。理由は単純明快、プロの運転手が操る運転の技、ギアの入れ替え、クラッチ操作そして運転全体を観察し将来の運転免許取得に役立てる為だった。当時、バスの変速機はマニュアルトランスミッションで前進4段後進1段、常にダブルクラッチによる変速機の切り替えである。往復とも最前列に陣取り運転手のギアの切り替え操作を見ながら真似をしたものである。通学中の3年間、同じ動作をやれば誰にでもバス運転手の疑似体験ができるから、自分なりに運転の基礎は学んだつもりになっていた。中学を卒業して高校に入ると上級生が時々クルマで学校にやって来ていた。クルマ通学である。と言っても、不思議な事は無い、当時は16歳で小型自動車免許が取得できたから、親父のクルマをちょっと拝借して通学する上級生も何人かはいたのである。

 

○我が家に初めて現れたクルマ

 

 

 その頃、我が家では12歳年上の兄が初めて国産のプリンス・セダン(年式不詳6人乗りセダン型式AISH-I)の中古を買い求めて庭の一角に簡易ガレージを作った。何しろ昭和30年初頭、クルマは大変贅沢な乗り物で大事に扱われていたからガレージも庭の入り口で正面に鎮座していた。毎日のようにクルマに近づいて、ドアーを開けては運転席周りをジロジロと眺めて触ったり、兄の指図で洗車やワックスがけをしたものだ。更に、このクルマを当時の多摩川東急自動車教習所に持ち込んで兄の監視の下で運転練習に励んだのを思い出す。

因みにこのクルマ、電気自動車メーカーであった“たま自動車”が昭和27年(1952年)3月、戦後初のガソリン自動車を販売開始、たまたまその年に皇太子(現天皇)の立太子礼が執り行われたことから、それにちなんで車種名称をプリンスとした。後にこの会社、社名をプリンス自動車に変更、初代プリンス・スカイラインの製造・販売へと続く。

 

  このクルマが我が家に来て間もなく16歳迎えた。その日を待ちわびていたかのように近所の中目黒にある自動車教習所に通い始めた。高校2年の3月のことである。それから約1か月半の実地教習と卒業試験、続いて鮫洲試験場での学科試験を経て、昭和34年5月2日、憧れの小型自動車運転免許を手に入れた。実に、57年前のことである。 

 

 免許取得と前後して兄のプリンス・セダンは下取りに出され、兄にとって初めての新車、日産自動車製のダットサン210型(1959年式OHV1,000cc)が東京日産赤坂営業所から我が家に納車された。このクルマ、当時は新車だったせいか、兄からちょっと拝借してドライブを楽しむことも出来ず、常に兄の監視と厳しい指導のもとでチョイの間の運転体験を楽しんだ。免許取得から大学2年生までは、兄のダットサン59年式と続いて兄が買い替えた日産自動車製オ―スチンA50ケンブリッジ(1960年式)にお世話になった。特にオ―スチンA50は後で触れるが、その後昭和38年(1963年)に兄から譲り受けてJAFに就職した年の昭和40年(1965年)後半まで愛車として乗り続けることになる。 

 

初めて手に入れたクルマから今日までの愛車遍歴 

 

○1963年(昭和38年)6月頃、初めての自分のクルマ 

①   日産ダットサン1,000㏄210型、1958年式 中古車  

 私が初めて自分の自由になるクルマを手に入れたのは1963年、丁度大学2年生の時だ。誰でも最初に手に入れたクルマは、その入手までの様々なエピソードがある。当時、男の子の夢は何といってもクルマを乗り回すこと。ガールハントには欠かすことの出来ないツールだった。だから、クルマが欲しくて朝から晩まで毎日のように兄貴や金を出す親父におねだりをしていた。このおねだりキャンペーンが始まったのは、確か大学へ通い始めた頃からだと記憶しているが、なかなか実現しなかったのも事実である。

  約2年に及ぶキャンペーンを経て、たまりかねた親父は、兄貴に中古車を10万円の予算で探してくれると頼んでいたらしい。そして、ついに希望がかなって昭和38年5月、紺色の昭和33年式ダットサン210型がやってきた。手に入れたクルマは、タクシー上がりの中古車だった。色はしぶく地味な紺色、内装や外観も傷んでいてみすぼらしかった。それでも、嬉しくてクルマがやって来たその日はクルマの中に泊まり込んだのを覚えている。当然、毎日のように洗車、ワックスがけをして磨き上げて通学にも利用した。このダットサン、外観上の特徴は“ハーモニカ”型のフロントグリル。エンジンは当時の日産として初めてのOHV1,000ccを搭載、テールランプは丸型、今で言う「ウインカー」はフェンダーの上に付いていた。この210型、1958年(昭和33年)8月20日~9月7日に開催された、オーストラリア一周ラリー「モービルガス・トライアル」に、2台が参戦。JAFの常任理事を長年に亘って務められた難波靖治氏(故人)が、当時富士号を駆って国際競技へ初挑戦、19日間 /1万6000kmを走破して、1000cc以下のエンジンを搭載したAクラスという部門で優勝を獲得、結果としてダットサンの優秀性を世界へアピールすることになった。戦後の復興期、まだ自動車産業が黎明期だった頃にこのような金字塔を成し遂げたのである。これは、日本モータースポーツ界にとっても、戦後初の偉業であり記録に残るクルマでもある。

下写真 部門優勝したダットサンと難波靖治氏(右)と筆者 

ダットサン210型には約1年乗り続けたが、その間やはりタクシー上がりの為かエンジンやボディーにじわじわと老朽化が進んだ。特に、取り付けられていた中古タイヤの品質の悪さだ。加えて、当時の道路面の劣悪さで国道から脇道にそれると穴ぼこだらけ、2つが相まって、水たまりに突っ込むと良くパンクしたものだ。

○1964年(昭和39年) 

②   日産自動車製オ―スチンA50ケンブリッジ(1960年式)中古車 

 このクルマは、兄が新車から大切に乗っていたもので程度は最高だった。兄がオースチンに代わって日産の上級車種となった初代セドリックへ乗り換えたことから譲り受けたものだ。JAFに就職した年の昭和40年(1965年)夏まで約2年間乗り続けた。初めてのクルマ、ダットサンと比べれば性能や乗り心地で優れていたし高級感もあった。このクルマを手に入れたのは大学3年生の頃だ。同好会の仲間とクルマを連ねてその当時脚光を浴びていた六本木へ夜遊びに出掛けたものだ。古き良き時代の六本木である。そもそも六本木界隈は、その昔は旧帝国陸軍の駐屯地で陸軍将校やその家族が多く住んでいた。それが終戦を迎えると旧駐屯地は、進駐軍に接収され多くの進駐軍家族や関係者が住む町に変貌していった。その頃から六本木通り周辺は、黄昏時になるとジャズが流れ進駐軍目当てのバーや飲食店が立ち並び、アメリカの音楽やファッションに憧れた所謂六本木族がどこからとなく集まる街となっていった。 

 

 我々もクルマで夜な夜な出掛けては、六本木交差点から狸穴に向かってすぐ左手角の「ハンバーガーイン」のカウンターでCokeを片手にハンバーガーを食べ、その先の洒落たスナック「Leo’s」でジュークボックスから流れてくるポール-アンカやニール・セダカのアメリカン・ポップスを聞きながらコークハイを飲んでお喋りをしたものだ。さらに、足を伸ばすと飯倉片町の交差点を左折してすぐ右手の「ニコラス・ピザ・ハウス」。当時美味しい「ピザ」はここまで来ないと食べられなかったからワクワクした。更に、その先の右手ロシア大使館手前には、若くして亡くなったあの有名な川添梶子さんの店「キャンティー」だ。小遣いを叩いては、名物の「バジリコ・スパゲティー」と「ガーリック・トースト」を酒の肴に、籠に包まれたイタリアの「キャンティーワイン」を飲んだのを想い出す。このお店の味と洒落た雰囲気は今でも忘れられない。嬉しいことに今でも昔の雰囲気を残していて名物の「バジリコスパゲティー」も健在、昔のままのレシピ―で食べられる。 

 

 その頃の六本木、交差点からは渋谷、四谷、新橋、神谷町へと東西南北に都電が走り、のどかな街だった。しかし、午後11時を過ぎると都電も終電を迎え静かになった六本木大通りはクルマの出番となる。当時はこの界隈は駐車もできたから、11時を過ぎると大通り両側には当時の名車が集まってきて、まさに高級車の展示場だった。残念ながら当時を記録した写真は一枚も残っていない。

 

 2台目となった和製オ―スチンの話に戻るが、このクルマの欠点は当時の英国製乗用車がそうであったように、ブレーキの効きが悪かったことだ。これには苦労したから後付けでブレーキ倍力装置を取り付けた。因みに、この和製オースチン、日産が英国のオ―スチン社と提携して1953年4月からオ―スチンA40 サマーセットサルーンのライセンス生産を開始したが、その後継モデルであり1956年5月には全ての部品を国内で調達する完全国産化を果たしている。(写真は同型車)

○1965年(昭和40年)秋 

③   空冷VWフォルクスワーゲン通称ビートル1965年型赤 新車  

 当時、何と言っても憧れの外車であった。1965年(昭和40年)4月、JAFに入社して間もなくの6月にこのクルマをゲットした。当時、ヤナセの販売価格は何と95万円、この金額と対照的にJAFの初任給は2万円だったから大変高価なものだ。給料の殆どはこのクルマのローンに消えた。このクルマ、何といっても作りはさすがにドイツ製、ドアーの閉まり具合、密封性そして機能性は当時の国産車と比べて群を抜いていた。更に、この時代の国産乗用車、ギアーのシフトノブは全て所謂ハンドルチェンジ、スポーツ感覚のフロアーシフトは魅力的だった。このクルマを駆って夏は海、そして冬は長野県の高嶺高原や熊の湯へスキーに出かけた。その想い出は脳裏に深く刻まれている。ただ、寒冷地での弱点は空冷エンジン、スキーに出かけた時など足元の隙間から送られてくる温風は雪道に入ると殆ど効果無し。寒いこと寒いこと、今でも忘れられない。もう一つの欠点はクラッチが滑ることで、5年間に2回もクラッチのオ―バーホールをしている。

 このクルマには1970年5月までJAFの研修生(Trainee)としてイギリス、ロンドンに本部があった英国自動車協会(AA)に派遣されるまで、約5年間愛着を持って過ごした。青春時代、古き良き時代を大いに楽しんだ思い出深いクルマでもある。(写真は同型車)

○1971年(昭和46年) 

④   ボルボ123GT 1971年型 新車 

 英国から帰国してすぐ、スウェーデン製の頑丈なクルマボルボ123GTの新車に乗る機会を得た。理由は、兄が購入して家のガレージにあったもので、仕事で殆んど兄もこのクルマに乗る機会も無く、代わって自分のクルマ同様に約1年間利用することが出来た。ラッキーな1年間余りでもあった。スペックは排気量1,780cc、全長4440、全幅1630、全高1460と現代のカテゴリーでいえばスモールとミディアムクラスの中間に位置するセダンである。当時メーカーのボルボ社は衝突安全性を売り物にして販売台数を伸ばしていた。一度、小型乗用車に追突されたことがあったが、リアーバンパーは全くの無傷、追突したクルマはラジエターまで損傷していた。ボディーはさすがに頑丈な作りのクルマであった。ただ当時の北欧で生まれたクルマの最大の欠点は、後で思い知らされることになるが、夏場高温多湿の風土に向いていないことだった。当時は、エアコンなど標準装備されていない時代、後付けで高価なエアコン(当時はクーラーと呼んでいた)をダッシュボード下に取り付けたが、これまた大変。冷房のスイッチを入れて暫く走るとオーバーヒート。夏はラジエターの温度計とにらみっこをしながらクーラー・スイッチのオン・オフを繰り返した苦い思い出がある。(写真は同型車)

 

○1972年(昭和47年  

⑤   三菱コルト1000 1968年型 中古車 黄色

 結婚して1年が過ぎたあたりから、我が家の生活全般は安月給との戦いだった。同級生との収入格差は開く一方、新車を買うことなど到底無理だった。そこで、友人の紹介で程度の良い中古車、コルト1000を入手、買い物や近場のレジャーに利用した。このクルマには約2年お世話になったが、本当に気に入って買ったクルマではないので想い出は殆んど無い。だだ、今までのクルマと比べると小型になったせいか取り回しが楽だったこと、そしてエンジンがビリビリと特異な音を出していた事くらいだ。(写真は同型車)

 

○1974年(昭和49年) 

⑥   4代目スカイライン2000GT 通称ケンメリ 1973年型 中古車

 このクルマも友人の紹介で1973年型の中古を購入。1年前に長男が誕生したことからクルマは生活の必需品、どこへ行くのも大きな荷物を載せて走り回った。このクルマ、何と言ってもエンジン・パーフォーマンス、さすがに初代プリンス・スーパー6エンジンの伝統を継ぐ直列6気筒2000ccエンジンは素晴らしい出来栄えで力強い走りを常に見せていた。シルバーメタリックの外観も気に入って、友人家族と志賀高原の「スキー」や伊豆下田の海水浴へ出かけたものだ。(写真は同型車)

 

○1977年(昭和51年) 

⑦   2代目日産ローレル2ドア  ハードトップ2000SGX 1975年型 中古車  

 3年乗ったスカGにも別れを告げて友人が持っていた2年落ちのこのクルマをゲット。何しろこのクルマ、当時では珍しいパワーステアリングや電動スライドウインドー等の豪華装備が満載で高価なアメ車の雰囲気を持っていた。通勤や子供連れで海や山にも出掛けたが、運転はスムースで長距離ドライブも疲れが来なかった。このクルマにはもっと長く乗りたかったが、事情あって約2年で手放すことになる。理由は息子も3歳を過ぎこの頃から私立小学校受験準備で、家内が塾通いにも使える取り回しの良い小型のクルマが必要になったからである。いわゆる「塾通い」にクルマが駆り出された時期だ。(写真は同型車)

 

○1979年(昭和54年) 

⑧   初代ホンダアコード1800 3ドア  ハッチバックEX ホンダマッチック1979年型 色イエロー 新車 

 子供の塾通いに家内も容易に運転が出来るようにと、ダウンサイジングしてボディーカラーも安全色の黄色を選んだ。この時ばかりは子供の送迎を担うクルマが車種選択基準となり、その為家内の意見が最優先だった。自分のクルマ道楽はこの時から当分の間お預けとなる。このクルマ、ローレルと比べると車格が違うせいか運転感覚は全く違う別世界だった。

 

  

 

○1982年(昭和57年) 

⑨   2代目トヨタ カムリ1800 4ドアセダン色アイボリー 新車 

3年間子供の塾通いで家内の運転も上達したことから、サイズが少々大きなカムリに買い替えることにした。このクルマ当初4気筒1,800㏄OHCエンジンとのことで動力性能において非力と思われたが、4人家族の移動でもストレスを感じない充分な走りを見せた。特にFFの特性を生かした室内空間には満足した。

 

 

 

 

○1985年(昭和60年) 

⑩   6代目日産 セドリック1983年型4ドア  ハードトップV20 ターボブロアム 色アイボリー Y30系前期モデル 中古車

 この頃、子育てと生活に悪戦苦闘していた我が家の家計簿を見かねて、このモデルから兄貴のお下がりが回って来ることになった。お下がりだから、クルマの購入、任意保険や維持費まで金銭の出費も無く随分救われた。時代はバブルの真っ只中、それでもJAFの給料では到底賄えない身分不相応な豪華絢爛、フル装備のハイソカーを手に入れることが出来た。このクルマ、日産として初めてのV型6気筒2,000㏄エンジンを搭載した最高級グレードのハードトップ型車両だ。海やスキー場への家族旅行も快適そのもの、通勤にも利用することが出来た。  

○1988年(昭和63年) 

⑪   6代目日産セドリック1986年型4ドア  ハードトップV20 ターボブロアム 色白 Y30系後期モデル 中古車 

 このクルマも兄のお下がりである。同系前期モデルに3年乗った後、同じく後期モデルがやって来た。この時期、職場ではJAF本部国際部長を拝命、仕事の関係で来日する自動車クラブ要人を成田に出迎えたり、箱根や富士五胡などの観光地へこのクルマを駆って観光案内に出かけたものである。 

 

 

○1990年(平成2年) 

⑫   7代目日産 セドリック1990年型4ドア ハードトップV20 ターボブロアム 色白 Y31系前期モデル 新車 

 

   このクルマは新車で利用することが出来た。理由は、家内が祖父と子供達を連れて西武球場へ向かう途中の代々木上原で一時停止を無視して突っ込んできた中型トラックと接触事故。クルマは修理不能ということで全損扱いとなったことから新車への乗り換えとなった。不幸中の幸いで、全損事故にも関わらず同乗者全員かすり傷一つ負わなかった。 (写真は同型車)

○1991年(平成3年)

⑬   7代目日産 セドリック1991年型4ドアハードトップV30 ターボブロアム 色グリーン Y31系後期モデル 3000㏄ 3ナンバーモデル 中古車 

 

  このクルマも兄からのお下がりである。兄がセドリックの上級車である初代「シーマ」を購入するため、私の乗っていたY31を下取りに出した為である。

○1992年(平成4年) 

⑭   7代目日産ローレル 1994年型4ドアハードトップ、色アイボリー 中古車 

  息子の運転免許取得と大学入学祝いに中古を購入、もう一台が加わり我が家の車庫にはセドリックを含めて2台が並んだ。

○1993年(平成5年) 

⑮   ボルボ850エステートターボ 1993年型  色グレーメタリック 新車  

 1993年型を新車で購入、それと同時にローレルを下取りとして売却した。このクルマ、エステートと言うだけあってリア―シートをたたむと広大なスペースが得られた。友達の引っ越しや大きい荷物の運搬によく駆り出され活躍した。スタイリッシュな外観で、ボルボ社として初めてこのモデルから直列5気筒2,434ccエンジンを投入。この5気筒エンジンを横置きに搭載、前輪駆動とし、過給機にライトプレッシャーターボを採用、193馬力の高出力を発生させた。このため、力強い走りが何と言っても魅力的だった。以前ボルボ社の123GTで経験した北欧自動車メーカーの弱点だった日本特有の高温多湿による夏場の対応、この弱点については日本製エアコン機器を導入することで全て解決していた。従って、真夏の灼熱の太陽下でも不快感は全くなかった。(写真は同型車)

○1997年(平成9年)4月頃 

⑯   ローバー200  色赤 中古車  

 娘の運転免許取得と大学入学祝いに中古のローバー2ドア―赤色がお下がりとして兄から譲り受けた。我が家のガレージはまたまた2台となった。このクルマ、維持していた期間が短かったことと、全く特徴の無かったクルマだったので印象は薄い。(写真は同型車)

○1999年(平成11年) 

⑰   VWゴルフ  色黒 新車 

  この年、お下がりで回ってきたローバーを下取りに出してVWゴルフ5ドア―ハッチバックを新車で購入、専ら子供達と家内が利用した。ボルボは従って小生専用車となった。このゴルフ、日本向けの99年モデルで直列4気筒、排気量2,000㏄エンジンを搭載し全幅は173.5㎝と小型乗用車の枠を3.5㎝も超えていた。しかし、設計の良さか、都内の狭い道路でも取り回しが楽だったのを覚

えている。 (写真は同型車)

○2003年(平成15年) 

ジャガーSタイプ3.0 色グレーメタリック 新車 

  2003年ボルボエステートターボを売却、憧れのジャガーSタイプを新車で購入した。色はブリティッシュ・レーシング・グリーンを希望したが、この色がラインアップされていなかったことからシルバーグレーに甘んじた。Sタイプを選んだ理由は、50~60年代名声を極めたジャガーマークIIの優雅なイメージを引き継ぐものだったからである。このジャガー、退職後を考えて2008年に売却してしまったことを今でも後悔している。いつまでもガレージに鎮座させておきたかった。 (写真は同型車)

○2004年(平成16年) 

⑲   アルファロメオ147  色黒  

  2004年に入るとVWゴルフも5年を経過、車検を控えていたこともあって売却した。代わって、2.0リッター直列4気筒ツインスパークエンジン搭載の洒落たデザインのブラック・メタリックに塗装されたアルファロメオ147を購入した。この時からクルマの色はシックな黒と決めたと思う。このクルマ、メカニカルな面でも当時は斬新で、5速オートマッチックに加えてステアリングホィール裏側のパドル操作でマニュアル・ドライブも楽しめた。以前からイタリア製のクルマは、とかくデザイン重視で外見は非常に魅力的だがメカニカルの面で不具合が頻発すると聞いていた。しかし、このクルマに限っては、その噂は払拭され約4年間2万キロを走破したが、その間トラブルは皆無であった。今でも脳裏に残る魅力的なクルマであった。

(同型のアルファロメオ147 染宮さん所有モデルの写真を提供いただきました )

○2008年(平成20年)6月 

⑳   ベンツC250アバンギャルド  色黒 新車 

   2008年約43年勤め上げたJAFを定年退職、年金生活に突入した。それに伴い、取り敢えずジャガーSタイプとアルファロメオ147の2台を売却整理し、新たにベンツC250アバンギャルドを新車で購入し1台に集約することとした。大変悲しい決断でもあった。 

 

   このクルマ、2,500㏄V型6気筒エンジンを積み静かで余裕のある走りを今でも見せている。購入の動機は、まずは取り回しの良いボディーサイズだ。このサイズなら家内も安心して運転できると思ったからである。購入後、直ちに親戚が住む秋田まで遠出したが、往復1,300キロ、素晴らしい走りを見せすっかり気に入ってしまった。現在まで約8年間所有し約14,000キロ走破したが、メカニカルなトラブルは皆無、今でも快調に走行しており買い替えるつもりは無い。ただ、73歳を過ぎこれからの更なる老いを考慮すると、衝突回避や一部自動運転機能が装備された新型Cクラスへ乗り換えるべきかどうか迷うところである。

 ○2013年(平成25年)3月 

スバル・フォレスター2013年、色黒 新車 

 2010年(平成22年)自宅を2世帯住宅に改装、息子夫婦が1階に同居することになった。その当時、息子はトヨタ・オーリスを持参し2年間利用していたが、2013年オーリスを売却しスバル・フオレスターを新車で購入した。これによって、ガレージには2台の愛するクルマが並んだ。

 このクルマは主として孫の送り迎えなどに息子が利用しているが、もしもの時にドライバーをサポートする「運転支援システム」アイサイトが搭載されているという安心感があるので時々拝借している。動体視力が低下した現在、何と言ってもその一番は危険を予測して衝突を回避するプリクラッシュブレーキだ。更に、高速道路走行時、前方のクルマとの車間距離を制御して自動的に追従するという機能を持った新しい「クルーズコントロール」、これが長距離ドライブ中のペダル操作の疲労を軽減してくれる。加えて、走行車線両側の区画線を認識してハンドル操作をアシストする機能も安全運転には欠かせない。

  一方、最近は地球温暖化によって冬場の都心には雪が積もることは少なくなったが、4輪駆動車はいざという時には頼もしい存在だ。昨年2月のこと、我が家の車庫前に通じる緩やかな坂道にも雪が積もった。こんな時はこのクルマの出番、立ち往生のクルマを後目にゆっくりだがスイスイと駅まで辿り着くことが出来た。                         以上                      平成28年3月30日